ニーチェ『ツァラトゥストラ』に学ぶ、生きる力と“自分との向き合い方”
- タナカユウジ

- 6月5日
- 読了時間: 12分
ドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844–1900)。
彼の言葉は、時に鋭く、時に孤高で、読み手に深い思索を促します。
ニーチェが晩年に遺した代表作『ツァラトゥストラかく語りき』は、単なる哲学書ではなく、彼自身が「人類への贈りもの」とまで呼んだ、特別な位置づけの一冊です。
宗教や道徳、善悪といった“既存の価値”を問い直し、「超人(Übermensch)」という独自の概念を通して、“自らの人生をどう生きるか”を徹底して見つめていこうとする、力強いメッセージが込められています。
ちなみに、みどり整体院のウーパールーパーの名前のひとりも「ニーチェ」です。それくらい、私にとっては身近で大切な存在でもあります。
この本は、物語の語り手として登場する“ツァラトゥストラ”という人物を通して進んでいきます。
長く山にこもって過ごしていたツァラトゥストラは、ある日突然、人々のもとへ降りてきて語り始めます。
その冒頭は、こんなふうに始まります:
「ツァラトゥストラ三十歳にして、郷里と湖を棄てて、山に登れり。そこにて精神と孤独を楽しみて、十年の久しきに及べり。されど遂に心変りして、ある朝、朝焼けに面して、太陽の前に立ち出でたり。」
……いきなり山にこもって10年、そのあと突然下界に降りてくるって、現代ならちょっと「危ないおじさん」に見えてしまうかもしれません(笑)
でも、そんな彼の語りには、今を生きる私たちの心や身体にも響いてくるような言葉が、驚くほど多くあります。
ここからは、その一部をご紹介しながら、私なりの視点で読み解いてみたいと思います。
※一部を原文に忠実に引用しつつ、全体としては要約・意訳を含めてご紹介しています。
十年間の隠遁と“満ちた精神”
山にこもって精神と孤独を育んでいたツァラトゥストラは、ある朝こう感じます。
「わたしの精神は満ちすぎた。今こそ、満ちた器からあふれさせねばならぬ。」
静かに、しかし確かに、自分の中にたまった思いを「誰かに伝えたい」という衝動。それは、内省の時間を十分に持ったからこそ生まれる感覚ではないかと思います。
これは、身体感覚にも似ています。
じっと休んだあと、自然と身体が「そろそろ動きたい」と感じるあの感覚。
“整った”からこそ、“外へ”と向かえるエネルギーが湧いてくる。
ツァラトゥストラの旅は、まさにそのようにして始まるのです。
森の聖者との出会い ― “神が死んだ”という独白
山を下りたツァラトゥストラは、ふもとの森でひとりの聖者と出会います。
この聖者は、文明から離れた自然の中で神に祈りを捧げる日々を送り、その生活の中に静かな満足と安心を見出していました。
ツァラトゥストラが「人間に何かを語ろうと思って下りてきた」と伝えると、聖者はこう答えます。
「人間に語るだと? わたしは森に来てから長いが、人間のことなど忘れたよ。神とだけ語っていれば十分だ。」
それを聞いたツァラトゥストラは、何も言い返しません。ただ、心の中でこうつぶやきます。
「彼は知らないのだ――神が死んだということを!」
この場面は、『ツァラトゥストラ』の中でも非常に印象的な一節です。
そして「神は死んだ」という言葉が、物語中で初めて登場する瞬間でもあります。
この一言には、ニーチェの思想の根幹が込められています。
それは単なる「無神論」の主張ではありません。
ここで言う“神”とは、宗教的な神そのものというより、「人間が長いあいだ絶対だと信じてきた価値」や、「依存していた拠りどころ」の象徴なのです。
この感覚は、現代にも通じるものがあります。
たとえば、「こう生きれば幸せになれる」「努力すれば報われる」――そんな“正しさ”が崩れたとき、私たちは混乱し、不安になります。
しかしツァラトゥストラは、この崩壊を“嘆き”ではなく、“目覚め”として受け止めます。
つまり、「これまでの価値が終わったのなら、これからは自分自身の軸を探さなければならない」ということ。
身体の世界でも同じです。
「正しい姿勢とは?」「健康のためにすべきこととは?」といった型に従ってきた人が、あるとき、ふと「自分には合っていなかったかもしれない」と気づくことがあります。
その瞬間こそが、“本当の意味で自分の身体と向き合う入口”になるのです。
ツァラトゥストラのこの独白は、私たちに問いかけているのかもしれません。「あなたは、誰かの“正解”をまだ信じ続けていませんか?」「それがもう、自分の中で終わっていると気づいていませんか?」
市場での最初の演説「超人」
森での出会いのあと、ツァラトゥストラは町の市場へと向かいます。
人々が集まり、言葉が交わされるこの場所で、彼は語り始めます。
「人間とは、超えられるべき存在である。」
このときツァラトゥストラが語った「超人(Übermensch)」という概念は、自分自身の価値を自分で創り、既存の枠組みに縛られずに生きる人の象徴です。
「人間は橋である――動物と超人のあいだにかけられた橋である。」
整体や心理の領域でも、これは共感できる考え方です。
「昨日よりも、少しだけ力が抜けた」「今日は呼吸が楽だった」――そんな小さな“超える”の積み重ねこそが、本質的な変化の兆しだと感じています。
しかし、この演説は人々にまったく理解されず、彼は嘲笑されてしまいます。
「彼らには、まだわたしの耳がない。」
それでもツァラトゥストラは語り続けようと決意し、この地をあとにします。この挫折こそが、彼の本当の旅の始まりだったのかもしれません。
「身体の理(ことわり)」について
ツァラトゥストラは旅の途中で、さまざまなテーマについて語っていきます。その中でも私が最も惹かれた章のひとつが、「身体の理(ことわり)」について語る場面です。
「身体は精神よりも大いなる理を持つ。」――第一部「身体の軽視者たちに」より
この言葉は、ニーチェが当時のキリスト教的価値観――つまり精神性や禁欲を重んじ、身体を軽んじる思想――に対して、真っ向から異議を唱えた一節です。
彼はこう続けます。
「おまえが『自我』と思っているもの、それはおまえの身体なのだ。」
この言葉に、私は整体師としての経験が重なります。
たとえば「気分は元気なのに、なぜか身体が重い」という方や、「頭ではわかっているけど、行動できない」という方。
そうした“ズレ”が起きているとき、身体のほうがむしろ「本音」を教えてくれていることが多いのです。
たとえば呼吸の浅さ、肩のこわばり、奥歯の噛みしめなど、それらは思考よりも先に、私たちの「今」を語っています。
ニーチェの言う「身体の理」とは、そうした身体の“沈黙の言語”にこそ、私たちが学ぶべき智慧がある――ということなのかもしれません。
心がついていかないときは、身体を整えることから始めてみる。
あるいは、言葉にならない違和感を、身体に訊ねてみる。それもまた、“自分と向き合う”大切な方法のひとつだと感じています。
苦悩と変容:鍛えの鉄床としての痛み
ツァラトゥストラは、人間の成長や変化について語る中で、「苦悩」についても真正面から向き合っています。
「汝の苦悩に目を背けるな。それはおまえを鍛える鉄床である。」――第二部より
苦しみや痛みといった体験は、多くの人にとって「避けたいもの」として捉えられがちです。
しかしニーチェは、それを「鍛える鉄床」、つまり人間をより強く、しなやかにしていくための“土台”だと語ります。
私たちの身体もまた、同じように語っていることがあります。
整体の現場では、「何年も放っておいた違和感が、あるとき急に表面化してきた」という方もいます。
その痛みが出たことで、初めて自分の身体の状態に気づき、生活を見直すきっかけになった――そんな話も少なくありません。
苦悩を排除すべき「敵」と見るのではなく、そこに何らかの“メッセージ”が込められていると捉える。
それは心理的な側面でも同じです。
たとえば「なぜこんなにイライラするのか」と悩む感情は、実は「本当はどうしたいのか」という奥底の声の入り口だったりします。
ニーチェのこの言葉は、そうした“身体と心のサイン”にもう一度耳を傾けてみるよう促してくれているように感じます。
私たちは「苦悩を克服する」ことばかりを求めてしまいがちですが、 “苦悩とともにどう在るか”を問うことも、ときには必要なのかもしれません。
自己超克と“踊る星”のイメージ
ツァラトゥストラの語りの中でも、特に印象深いのが「自分を乗り越える」というテーマです。
「おまえにとって愛すべき者とは、自分を乗り越える者だ。」――第一部「千の目標と一つの目標」より
私たちはつい「他人のようになりたい」と思いがちですが、 ニーチェは「過去の自分を超えようとする姿こそが、美しく尊い」と語ります。
整体の施術でも、心のケアでも、日々感じるのは、 「昨日と比べて、少しでも呼吸が深くなった」「今日は自分に優しくできた」―― そんな“ささやかな変化”が、もっとも力強い前進だということです。
他人と比較するのではなく、自分なりのペースで超えていく。
それこそが「自己超克」であり、「整える」という営みの本質に近いと私は感じています。
そして、ニーチェはこんな詩的な言葉を残しています。
「混沌を内に抱ける者だけが、踊る星を生み出せる。」――第一部「この世の軽蔑者たち」より
“踊る星”とは、私たちの中にある新しい創造性、可能性の象徴です。
その星は、整いきった秩序からではなく、 むしろ“ゆらぎ”や“不安定さ”――つまり混沌から生まれてくるのだと、ニーチェは語っています。
これは身体にも通じます。
違和感や揺らぎを悪と決めつけず、観察し、受け入れてみる。そこから新しい身体の感覚や、生き方のヒントが生まれることがあります。
混沌を否定せず、その中に種を見出すという姿勢。それはまさに、「整える」という行為が持つ、深く静かな力のようにも感じられます。
三段の変化――“なる”ために、変わり続ける
ツァラトゥストラが山を下りてしばらく経ったある日、彼は「精神の三段の変化」について語り始めます。
これは、ニーチェの思想のなかでもとくに有名な場面のひとつです。
「精神には三つの変化がある。すなわち、駱駝(らくだ)、獅子、そして幼子。」
……駱駝に獅子に幼子?と、はじめて読んだときは私も首をひねりました(笑)
でも読み解いていくと、この三段階には“人が本当に自分になるためのプロセス”が、象徴的に表されているのです。
第一段階:駱駝――重荷を背負い、自分と向き合う
最初に現れるのは「駱駝(らくだ)」。
砂漠を黙々と歩き、重い荷を背負うこの動物は、「耐える力」や「従順さ」の象徴とされます。
ここで言う精神の駱駝とは、社会や他人の期待、「~すべき」「こうあらねば」といった“重荷”をしっかり受け止めようとする段階です。
整体の現場でも、がんばり屋さんほど身体が硬くなる傾向があります。
「ちゃんとしなきゃ」「もっと努力しないと」――そんな思いが、無意識のうちに肩や背中を緊張させてしまうのです。駱駝のように一生懸命なのは素晴らしい。
でも、それだけでは心も身体も持ちません。
第二段階:獅子――“ノー”と言える力を持つ
次に現れるのが「獅子」。これは、駱駝のように従うのではなく、「自分で選ぶ」ことを始める段階です。
「獅子は、権威に対して“否(ノー)”を叫ぶ。」
つまり、自分を縛ってきた“掟”や“常識”に反発する精神。
「ほんとうにこれを望んでるのか?」と問い直す勇気。自分の中の「嫌だ!」という声に、はじめて耳を傾けられる瞬間です。
身体の感覚にも、似たようなプロセスがあります。
ある時ふと、「あれ、ずっと無理してたかもしれない」と気づくこと。
その気づきが、「もっと自然に生きていいんだ」と、自分に許可を出す第一歩になることもあります。
第三段階:幼子――“遊ぶように創る”
最後に登場するのが「幼子(おさなご)」です。これが、ニーチェの描く“最も自由な精神”の姿。
「幼子は、忘れ、無垢であり、遊びながら新しい価値を創り出す。」
駱駝は耐え、獅子は否定し、幼子は――創造します。
「こうあるべき」を一度壊したあとで、自分だけの「こうありたい」を自由に描き始める段階です。
整体師として、私はこの“幼子の感覚”をとても大切にしています。
たとえば、自由に身体をゆらす・転がる・深呼吸をする――それはまるで、遊ぶように、身体と“仲直り”する時間のようです。
ツァラトゥストラが語るこの三段階は、精神の成長プロセスであり、どこか、心や身体と向き合う過程とも重なるように思います。
駱駝のように背負い、獅子のように吠え、そして――幼子のように、笑いながら新しい自分を生きていく。
その繰り返しこそが、“超人”への道なのかもしれません。
洞窟の宴にて――変な仲間と過ごす“豊かさ”
物語の終盤、長い旅を経て、ツァラトゥストラは再び静かな山の中に戻ってきます。
そこで、彼は自らの洞窟に、少し変わった客人たちを招いて「宴(うたげ)」を開きます。
この宴がまた、なかなかカオスなのです。
集まってきたのは、クセ強めの仲間たち
たとえば、「真面目すぎて空気を読まない学者」や、「理屈ばかりで実践しない者」、さらには「悲しみに酔っている詩人」や「奇妙な魔術師」まで――どこかで見たような(というか、わたしたちの周りにもいそうな)キャラクターが次々に登場します。
ツァラトゥストラは、そのひとりひとりに語りかけ、彼らを受け入れ、時にツッコミを入れながら「完璧でない者たち」と共に夜を過ごします。
完璧でなくても、分かり合えなくても
この宴に集まった人たちは、ニーチェが理想とする“超人”にはほど遠い存在です。
けれど、だからこそ、この場面にはどこか人間味があふれています。
ツァラトゥストラ自身も、常に理解されるわけではありません。
むしろ、誤解され、笑われ、孤独に打ちのめされることの方が多かった。それでも彼は、自分の言葉を語りつづけ、自分の洞窟で仲間を迎え入れたのです。
整体の仕事でも、「ちゃんと分かってもらえること」よりも、「分かってもらえないままでも、ここにいていい」と思える空気が大切なときがあります。
“自分を生きる”とは、旅をやめないこと
ツァラトゥストラは最終的に、山に帰ってきたように見えて、実は“旅を終えた”のではなく、“旅の仕方を変えた”のだと私は感じています。
完璧でなくても、自信がなくても、それでも語り、笑い、時に黙って寄り添う――そんな不器用な営みを続けていくこと。
それこそが、“自分の人生を創っていく”ということなのかもしれません。
ツァラトゥストラは、特別な誰かの物語ではなく、自分の軸を探して迷いながら進む、すべての人のための物語だと思います。
あなたのなかにも、駱駝がいて、獅子がいて、幼子がいます。
そして、変わった客人が住む洞窟が、すでに心のどこかにあるのかもしれません。
おわりに
ニーチェの言葉は難解で、ときに過激に思えるかもしれません。けれどその根底には、どこまでも「生きる」ということへの誠実さがあると感じます。
気になった方は、ぜひ読んでみてください。この一冊(上・下)が、どこかで誰かの支えになれば嬉しいです。
※中野区にあるみどり整体院に置いています。




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