時間を奪うのは、誰か。――『モモ』を読んで考えたこと
- タナカユウジ

- 1月9日
- 読了時間: 6分
今回は、ミヒャエル・エンデ著の児童書『モモ』の感想を書きたいと思います。
『モモ』は1973年に発表された作品です。
日本では長く読み継がれてきました。児童書として紹介されることの多い一冊です。
一方で、大人になってから読み返すと、受け取る印象が大きく変わる本でもあります。
物語の中心にあるテーマは「時間」です。
ただし、それは予定管理や効率化の話ではありません。
人がどのように時間を感じ、どのように生きているのか。
その感覚そのものが、物語全体を通して静かに描かれています。
ここから先は、あらすじに触れます。未読の方は、その点だけご承知ください。
『モモ』という物語の骨格
円形劇場と、話を聞く少女
物語は、廃墟となった円形劇場に住む少女モモと、彼女のまわりに集まる人々から始まります。
登場するのは、町の人たちです。道路掃除の仕事をしているベッポ。
話好きで、昔話を語るジジ。
ほかにも、歌い手や職人、子どもたちが、円形劇場に出入りします。
モモには特別な力があります。
それは、相手の話をじっくりと聞くことです。
彼女の前では、人々は自分の言葉を取り戻します。
忘れていた考えや感情に気づいていきます。
モモは助言をするわけでもありません。
正解を示すわけでもありません。ただ話を聞き、同じ時間を過ごします。
灰色の男たちのやり方
そんな街に現れるのが、「時間貯蓄銀行」を名乗る灰色の男たちです。
彼らはいわゆる「時間泥棒」として描かれます。
ただし、人々から無理やり時間を奪うわけではありません。
「あなたは無駄な時間を使いすぎている」「その時間を貯金すれば、将来もっと豊かになれる」
そう語りかけます。人々を納得させていきます。
遊びや会話、立ち止まる時間を削ります。効率よく、真面目に生きることを促していきます。
その結果、街からは少しずつ余裕が消えていきます。
忙しくなったはずなのに、なぜか満たされない。人と話す時間は減っていきます。
やるべきことだけが残っていきます。
灰色の男たちは、時間そのものではありません。時間の感じ方を、静かにすり替えていきます。
時間は、どこで失われていくのか
灰色の男は、いつの時代にもいる
この構図は、いまの私たちの暮らしとも重なって見えます。
現代で考えるなら、灰色の男たちは、スマートフォンを通じて流れ込んでくる情報や、通知で何度も呼び戻されるような、途切れにくいつながりの姿をしているようにも見えます。
あふれる情報の流れの中にいる存在です。
情報を集めている。つながっている。役に立つことをしている。
そう感じながら、気づくと数分、数十分が過ぎていることがあります。
ただ、ここで立ち止まって考えてみると、「時間を奪う存在」が現代にだけ現れたわけではないことにも気づきます。
『モモ』が書かれた1970年代より前にも、人は忙しさに追われてきました。余裕を失ってきました。人との関わりを後回しにしてきました。
形は違っても、どの時代にも「灰色の男」は存在していたのだと思います。
道具の問題ではないという視点
効率や成果を優先するあまり、誰かと話す時間が削られていく。
一緒に過ごす時間が削られていく。立ち止まる時間が削られていく。
それはスマートフォンの問題というより、人が社会の中で生きる以上、繰り返されてきた構図なのかもしれません。
『モモ』が描いているのは、特定の道具や技術への批判ではありません。
人と人とのつながりが、いつのまにか後回しにされてしまうことへの、静かな警告です。
モモが選んだ、非効率なやり方
説得もしない、正解も言わない
灰色の男たちに対して、モモは効率的な対策を取りません。
誰かに「時間の使い方を変えなさい」と説いたりしません。正しい答えを教えたりもしません。
モモがしたことは、とても単純です。立ち止まることです。
相手の話を聞くことです。その場にとどまることです。
急ぎません。遮りません。評価もしません。結論も出しません。
ただ相手と同じ時間を過ごします。
時間を取り戻すということ
その中で人々は、自分が何を大切にしていたのかに気づいていきます。
どんな時間を失っていたのかに、少しずつ気づいていきます。
人とのつながりは、効率よく取り戻せるものではありません。
だからこそモモは、遠回りに見える方法を選び続けました。
時間を取り戻すとは、新しい時間を増やすことではありません。
誰かと過ごす時間の中で、自分の感覚を取り戻していくことだったのかもしれません。
この物語は、いつの話なのか
『モモ』は、どこか昔の物語のように語られています。
はっきりとした時代は示されません。具体的な場所も示されません。
だからこそ、この物語は、過去の出来事としても読めます。いま起きていることとしても読めてしまいます。
物語の終盤で、語り手は次のような言葉を残します。
「わたしはいまの話を、過去に起こったことのように話しましたね。でもそれを将来起こることとしてお話ししてもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。」
この一節が示しているように、『モモ』は過去の物語であると同時に、いつか、どこかで繰り返される出来事としても読めます。
これは、昔の物語のように書かれています。けれど、未来のことかもしれません。
ここまで読み返してみて、私自身が強く感じたのは、「時間を奪われている」という感覚は、案外はっきりとは自覚できないものだということでした。
忙しさの中にいるとき、私たちは何かを失っているというよりも、「ちゃんとやっている」「遅れていない」と感じていることが多いように思います。
けれどその一方で、誰かとゆっくり話した記憶や、何も生産していない時間の手触りだけが、いつのまにか薄れていく。
『モモ』を読んでいて印象に残るのは、灰色の男たちが消えたあとに、世界が派手に反転するわけではないという点です。
人々は突然、豊かになるわけでもありません。世界が分かりやすく良くなるわけでもありません。
ただ、誰かの話を聞く時間が戻ります。同じ場所で、同じ時間を過ごす感覚が、少しずつ取り戻されていきます。
それはとても地味で、効率の悪い変化です。
けれど、時間を生きている実感は、そうした遠回りの中にしか残らないのかもしれません。
『モモ』は、何をすべきかを教えてくれる物語ではありません。
ただ、立ち止まること。誰かの話を聞くこと。同じ時間を生きること。
それらが失われていくとき、私たちの時間もまた、静かにすり替えられていくのだと、そっと示しているように思います。




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