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ニーチェ『ツァラトゥストラ』に学ぶ、生きる力と“自分との向き合い方”

  • 執筆者の写真: タナカユウジ
    タナカユウジ
  • 2025年6月5日
  • 読了時間: 9分

更新日:8月16日


※動画は記事公開当時の内容です。現在の考え方に合わせ、本文は一部更新しています。

ドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844–1900)。

名前は知っていても、「難しそうで読んだことはない」という方も多いのではないでしょうか。


代表作『ツァラトゥストラかく語りき』も、決して読みやすい本ではありません。

物語のように進みながら、宗教や道徳、善悪、人間とは何かといった大きな問いが次々に投げかけられます。


それでも読み進めていくと、その奥には「自分の人生をどう生きるのか」「他人から与えられた価値観ではなく、自分自身の価値をどうつくるのか」という、今を生きる私たちにも通じる問いが見えてきます。


そして整体師として読むと、ニーチェが「身体」を非常に重要なものとして捉えていたことにも惹かれます。


ちなみに、みどり整体院で暮らしているウーパールーパーの一匹も「ニーチェ」という名前です。

それくらい、私にとって身近で大切な哲学者でもあります。


今回は『ツァラトゥストラかく語りき』を読みながら私が特に印象に残った「超人」「身体」「精神の三段の変化」という三つのテーマを中心に、自分自身と向き合うことについて考えてみます。



「超人」とは、特別な人になることではない


『ツァラトゥストラかく語りき』では、「超人(Übermensch)」という有名な言葉が登場します。

名前だけを見ると、誰よりも強く、優れた人間になることのようにも聞こえます。

しかし私が読んでいて感じるのは、単純な優劣や競争とは少し違うものです。


ニーチェが問いかけているのは、これまで当然だと思ってきた価値観をそのまま受け入れるのではなく、自分自身で考え、自分なりの価値をつくっていくことではないでしょうか。


私たちは日常の中で、「普通はこうする」「こうあるべきだ」という言葉にたくさん触れています。


健康についても同じです。


「正しい姿勢はこれ」

「この運動をすればいい」

「毎日これをやるべき」


情報が多い時代だからこそ、一つの正解に自分を合わせようとしてしまうことがあります。


もちろん、知識を得ることは大切です。ただ、それが自分の身体に合っているかどうかは別の問題です。

昨日より少し自分の身体に気づけた。以前なら無理をしていた場面で、一度立ち止まれた。

そうした小さな変化も、自分自身を知り、これまでとは違う選択をするという意味では、大切な一歩だと思います。



「神は死んだ」が問いかけているもの


ニーチェを代表する言葉の一つに「神は死んだ」があります。

これは単純に神の存在を否定する言葉として読むより、それまで人々が絶対的なものとして頼ってきた価値観が揺らいだ時代に、「では、これから何を基準に生きるのか」と問いかけた言葉として読むと分かりやすくなります。


誰かが決めた正解に従っていればいいのであれば、ある意味では楽です。

しかし、その正解が自分に合わなくなったとき、自分自身で考えなければならなくなります。


これは身体について考えるときにも似ています。

一般的には良いとされる方法でも、すべての人が同じように感じるわけではありません。

だから私は、知識だけで身体を判断するのではなく、「実際に自分はどう感じているのか」を観察することも大切だと考えています。


身体の状態へ気づくという考え方については、

でも詳しく紹介しています。



ニーチェが考えた「身体」


私が『ツァラトゥストラかく語りき』を読んで、整体師として特に興味を持ったのが身体について語られる部分です。

ニーチェは、精神だけを人間の中心に置く考え方に疑問を投げかけ、身体そのものを非常に重要な存在として扱います。


私たちはつい、頭で考えていることを「自分」だと思いがちです。


「まだ頑張れる」

「これくらい大丈夫」

「休んでいる場合ではない」


そう考えていても、身体には別の反応が現れていることがあります。


肩に力が入っている。

呼吸が小さくなっている。

顎を噛みしめている。

座っているだけなのに、身体のどこかが緊張している。


だからといって、その反応だけで身体の状態を決めつけることはできません。

しかし、頭で考えていることとは別に、身体に起きていることへ目を向ける材料にはなります。


整体でも「身体の声を聞きましょう」と言うことがありますが、身体が何か特別なメッセージを話しているわけではありません。

今どこに力が入っているのか。どんな姿勢が楽なのか。呼吸はどうなっているのか。

そうした実際の身体感覚へ注意を向けることを、私は「身体の声を聞く」という言葉で表しています。



苦しみを美化する必要はない


ニーチェの思想には、苦しみや困難を避けるだけではなく、それを通して自分自身を乗り越えていくという考え方が繰り返し登場します。

ここは、とても魅力的である一方、読み方には注意が必要だと思います。


苦しいことに耐えれば人間的に成長する、という単純な話ではありません。

まして身体の痛みや不調を「成長のためだから我慢しよう」と考える必要もありません。


私がここから受け取っているのは、苦しみそのものを良いものとすることではなく、自分に起きたことをどう受け止め、そこから何を選ぶかという部分です。


たとえば身体に違和感があったとき、無理を続けるのか。それとも生活を振り返るきっかけにするのか。

同じ出来事でも、その後の選択は変えられます。


大切なのは、痛みや苦しみに意味を無理やり与えることではなく、それをきっかけに自分自身を見直す余地を持つことではないでしょうか。



自己超克とは「昨日の自分」を少し超えること


ニーチェを読むうえで重要な言葉の一つが「自己超克」です。

これも、誰かに勝つことではありません。

自分の中にある古い価値観や習慣を乗り越えながら、新しい自分をつくり続けることです。


身体について考えるなら、劇的な変化である必要はありません。


以前は肩に力が入っていることにも気づかなかったけれど、今日は気づけた。

疲れていても無理を続けていたけれど、今日は少し早く休めた。

「こうしなければならない」と思っていたことを、本当に必要なのか一度考えてみた。


小さなことですが、自分の状態に気づき、これまでとは違う選択をすることも、自分自身との向き合い方の一つだと思います。



駱駝、獅子、幼子という三段の変化


『ツァラトゥストラかく語りき』の中でも、私が特に好きなのが「精神の三段の変化」です。

ニーチェは精神の変化を、「駱駝(らくだ)」「獅子」「幼子」という三つの姿で表現します。


最初の駱駝は、重い荷物を背負う存在です。

責任を引き受け、「やらなければならないこと」を背負いながら進んでいく。生きていくためには、こうした時期も必要でしょう。

しかし、いつまでも背負い続けるだけでは、自分自身の価値をつくるところまでは進めません。


そこで現れるのが獅子です。

獅子は、それまで自分を縛っていた価値観に対して「否」と言います。

本当にこれは必要なのか。

誰かに言われたから続けているだけではないか。

自分はどうしたいのか。

そう問い直す段階です。


そして最後に現れるのが幼子です。

幼子は、ただ反抗するのではありません。古い価値観から自由になった場所で、新しいものをつくり始めます。


私はこの三段の変化がとても好きです。

頑張って背負う時期があり、それを疑う時期があり、最後には自分なりのやり方を見つけていく。

人生のいろいろな場面で、人はこの三つを行き来しているのかもしれません。



身体にも「頑張る」「気づく」「選び直す」がある


この三段の変化を、そのまま整体に当てはめるつもりはありません。

ただ、身体との付き合い方を考えていると、少し似た流れを感じることがあります。


仕事だから仕方ないと無理を続ける。

疲れていることに気づいても、まだ頑張ろうとする。

やがて「このままでいいのだろうか」と考え始める。

そして、休み方や身体の使い方、生活そのものを少しずつ選び直していく。


身体は思想書のように答えを教えてくれるわけではありません。

それでも、自分の状態に気づくことで、今まで当たり前だと思っていた行動を見直すことはできます。


整体の時間を通して自分の状態へ気づくという考え方については、

でも紹介しています。



「自分らしく生きる」は簡単ではない


「自分らしく生きよう」という言葉は、今では珍しくありません。

しかしニーチェを読んでいると、それは決して気楽な言葉ではないと感じます。

自分で考えるということは、誰かが用意した答えだけに頼れないということでもあります。


何が正しいのか。

何を大切にするのか。

どこまで頑張り、どこで手放すのか。


その答えを自分で考え続けなければなりません。


だからこそ、『ツァラトゥストラかく語りき』は「こう生きれば幸せになれる」と教えてくれる本ではありません。

むしろ、簡単な答えをくれない本です。

それでも、ときどき立ち止まって「これは本当に自分が選んだものなのか」と問い直すきっかけを与えてくれます。



世阿弥にも感じた「自分を知る」ということ


ニーチェとは時代も文化もまったく違いますが、世阿弥の『風姿花伝』を読んだときにも、自分自身を冷静に見ることの大切さを感じました。

世阿弥は、年齢や経験によって変わっていく自分を見ながら、その時々の「初心」を忘れないことを説いています。


ニーチェが自分を乗り越えながら新しい価値をつくろうとしたのに対し、世阿弥は自分の変化を見つめながら、その時の自分に合った在り方を探していたように私は感じます。

方向は違っていても、「今の自分を知る」という点では、不思議と重なるところがあります。


も、あわせて読んでみてください。



おわりに


『ツァラトゥストラかく語りき』は、一度読めばすべて理解できるような本ではありません。

私自身、読むたびに引っかかる場所が変わります。


以前は「超人」や「神は死んだ」という強い言葉に目が向いていましたが、整体の仕事をするようになってからは、身体について語られる部分や、自分自身を乗り越えていくという考え方が以前より気になるようになりました。


それも読書の面白さなのだと思います。

本は変わらなくても、読む自分が変われば、見えてくるものも変わります。


『ツァラトゥストラかく語りき』は、答えを与えてくれる本というより、自分自身へ問いを返してくる本です。

「自分は何を大切にして生きたいのか」

そんなことを考えたくなったとき、手に取ってみるのも面白い一冊だと思います。


※中野区にある当院にも置いています。



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ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』を読み、生き方や身体との向き合い方について考えるイメージ


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