整体と医療の歴史 第6回 反動と復活——カイロ・オステオと“触れる医学”の再興(1800〜1900)
- タナカユウジ

- 8月8日
- 読了時間: 5分
更新日:8月10日
▶︎ 第1回はこちら 👉 祈りと呪術から始まった医療(古代〜紀元前3000〜)
▶︎ 第2回はこちら 👉 古代文明に息づく“手当て”の知恵(エジプト・インド・ギリシャ)
▶︎ 第3回はこちら 👉古代東洋医学の体系化と広がり 〜中国・朝鮮・日本、そして同時代の西洋との対比〜
▶︎ 第4回はこちら 👉中世の医療と身体のまなざし──断絶と継承のあいだで
▶︎ 第5回はこちら 👉科学と身体の再発見──ルネサンスから近代医療へ
19世紀という転換の世紀
1800年から1900年にかけての19世紀は、世界中で産業革命が進み、交通・通信・科学技術が飛躍的に発展した時代でした。
蒸気機関や鉄道、電信といったインフラが整備され、人々の生活は一気にスピードを増していきます。
国家間の交流も加速し、植民地支配や列強の競争が激化する一方で、教育や衛生、公衆医療といった分野も制度化されていきました。
医学の世界も例外ではなく、「経験」や「直感」に頼っていた医療が、次第に「科学的な理論」によって裏付けられるようになります。
一方、アジアに目を向けると、東洋医学はこの時代においても独自の発展を続けていました。
とくに中国や日本では、「気の流れ」や「陰陽五行」といった概念に基づいた診療体系が根強く残っており、鍼灸やあん摩、漢方などが人々の生活に深く根づいていました。
ただし、西洋医学の影響は次第に強まり、明治以降の日本では東洋医学が制度の周縁へと追いやられていく運命をたどります。
そんな時代のなかで、身体に“触れる”という行為がどのように扱われ、そしてどのように復活していったのか。
今回は、19世紀の世界と日本を背景に、「触れる医学の再興」をテーマとして見ていきたいと思います。
▶︎ 第1回はこちら 👉 祈りと呪術から始まった医療(古代〜紀元前3000〜)
▶︎ 第2回はこちら 👉 古代文明に息づく“手当て”の知恵(エジプト・インド・ギリシャ)
▶︎ 第3回はこちら 👉古代東洋医学の体系化と広がり 〜中国・朝鮮・日本、そして同時代の西洋との対比〜
▶︎ 第4回はこちら 👉中世の医療と身体のまなざし──断絶と継承のあいだで
▶︎ 第5回はこちら 👉科学と身体の再発見──ルネサンスから近代医療へ
医学が「科学」になった時代
19世紀、西洋医学は劇的な変貌を遂げました。
それまで“神の意志”や“四体液説”といったあいまいな理論に頼っていた治療は、「目に見えるもの」「数値化できるもの」へと大きく舵を切っていきます。
とくに、解剖学・病理学・衛生学が体系的に整理され、麻酔や消毒の技術が確立したことで、手術はより安全で、再現性のあるものとなりました。
フランスでは病理学者ビシャが臓器単位の病気を理論化し、ドイツでは細胞病理学の父・ウィルヒョウが「すべての病気は細胞に始まる」と主張しました。
身体は、観察される“モノ”として捉えられ、医学は“生命現象を分解して制御する学問”へと進化していきます。
しかしその裏で、「人間に触れる」という文化は、徐々に隅に追いやられていきました。
静かに芽吹く、“手当て”の系譜
医学がどれほど進歩しても、人間は痛みを抱え、悲しみを抱え、生きていきます。
そうしたなかで、19世紀末、アメリカ中西部に一人の医師が立ち上がりました。
アンドリュー・テイラー・スティル——オステオパシーの創始者です。
彼は、南北戦争で家族を失った苦しみのなかで、「本当に人を癒すとは何か」を見つめ直し、身体の構造と機能の関係性に注目しました。薬を使わず、骨格や筋肉の調整を通じて自己治癒力を引き出す技術を築いていったのです。
また同時期、D.D.パーマーが創始したカイロプラクティックも同様に、神経の流れと背骨の配列に注目し、「手で整える」技術として発展していきました。
これらは決して“古い時代の遺産”ではなく、むしろ、近代医学の“空白”を埋めるように生まれた、新たな医療のかたちだったといえるでしょう。
科学に傾きすぎた医療への“揺り戻し”
こうした手技療法が支持された背景には、当時の人々の医療に対する“反発”がありました。
外科手術の技術は進歩しても、全体を見ずに部分だけを切除するようなアプローチ。
薬の化学成分ばかりに頼り、副作用に苦しむ患者。
人間を「器械」として扱う視点に、違和感を抱く人たちが増えていたのです。
カイロプラクティックやオステオパシーは、そうした「忘れられた身体感覚」を取り戻す運動でもありました。
一方、日本では——明治という転換点
日本においてもこの時代、大きな転換期を迎えていました。
1868年の明治維新により、西洋の制度・文化が一気に流入。医学も例外ではなく、漢方医学は一時「時代遅れ」とされ、ドイツ医学を中心とした西洋医学が主流となっていきました。
それに伴い、それまで民間で広く行われていた“手当て”や“あん摩”“導引(体操・呼吸法)”などの技法は、正式な医療の場から外されていきます。
しかし、庶民のあいだでは、そうした“手を使う知恵”が息づき続けていました。
母が子をさすり、村の年長者が揉みほぐす。身体に触れ、調える文化は、制度の外で静かに守られていたのです。
この時代の伝統手技のいくつかは、のちに日本独自の整体や指圧、療術として再構築されていきます。
身体を「整える」という思想
カイロプラクティックも、オステオパシーも、日本の整体も、それぞれ異なる背景や理論を持っています。
しかし、そこに共通しているのは、“生命の流れを妨げないように整える”という視点です。
19世紀という「科学信仰の時代」において、人間の身体を“調和”や“バランス”の中で見る視点が、民間から立ち上がったことは、決して偶然ではありません。
私たちはいまも、科学の力に支えられて生きています。
けれど、科学だけでは癒せないものもある——そう気づいたとき、人はふたたび“手を当てる”という原点に帰っていくのかもしれません。
※本記事は特定の施術や治療効果を保証するものではありません。歴史的な視点から、手技療法の発展と背景について紹介しています。
【参照文献】
『オステオパシーの父 A.T.スティル自伝』アンドリュー・テイラー・スティル 著
『カイロプラクティックの歴史』J.トラヴィス 著
『医学の歴史』ロイ・ポーター 著/田中真知 訳
『東洋医学の思想と歴史』小曽戸洋 著
厚生労働省 医師制度・医療制度に関する資料(明治期)
次回・第7回では「現代の整体と補完医療——科学と信念のはざまで(1900〜現代)」を予定しております。




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