だれかのためにできること
- タナカユウジ

- 2025年12月19日
- 読了時間: 4分
人や街のために、何かできたらいい。そう思う瞬間は、誰にでもあると思います。
ただ同時に、「立派なことをしなければ意味がないのではないか」「中途半端にやっても仕方がないのではないか」そんな気持ちが先に立ち、結局何もしないままになることも少なくありません。
今回は、そうした話とは少し違うところから始まった、私自身の実体験について書いてみたいと思います。
人のためにすること|高齢者との関わり
約3か月前から、ボランティア活動を続けています。
といっても、最初から強い志や明確な目的があったわけではありません。
「できることがあったから、やってみた」それに近い、ごく自然な始まりでした。
やってみて、続けられそうだと感じた。だから、続いている。今振り返ると、それだけのことだったように思います。
現在行っているボランティアの一つは、高齢者のお手伝いです。内容は主に、掃除などの身の回りのこと。
生活の中で後回しになりやすい部分を、一つずつ整えるような関わりです。
関わる相手は「人」です。しかも、その人の生活そのものに直接触れる形になります。
続ける中で強く感じたのは、高齢者のつらさは能力の問題ではない、ということでした。
多くの場合、つらいのは「できないこと」そのものではありません。
以前は、できていたことができなくなること。
その変化には、情けなさや悔しさが伴います。
外から見ていると些細に見えることでも、本人にとっては静かで大きな負担になっている。そう感じる場面が何度もありました。
認知症も含め、高齢者の変化は「個人の能力の問題」として語られがちです。
しかし、実際に関わってみると、環境とのズレや、生活の変化が負担になっている場面が多く見えてきます。
少し整えるだけで楽になる。誰かが手を入れることで、生活が回り出す。
必要なのは、特別な専門性ではないと考えています。
むしろ、変化に気づき、手を差し伸べる余地を残しておくことなのかもしれません。
このボランティアが続いている理由の一つは、「構えすぎていないこと」だと感じています。
・役に立とうとしすぎない
・立派にやろうとしない
・できるときに、できる範囲で関わる
その距離感のほうが、結果的に長く続きます。
続くこと自体が、関係性をつくっていく。それは、やってみて初めて実感したことでした。
こうした高齢者支援の関わりを続ける中で、区が行っている介護の講習に参加しました。
そして現在は、さらにステップアップするために資格取得を目指しています。
これは「やらなければならないから」ではありません。
関わりを続ける中で、もう少し深く理解したい、もう少し適切に関われるようになりたい。
そうした気持ちが、自然に次の行動につながった形です。
街のためにすること|ゴミ拾い
もう一つ、別の形の行動として、街でのゴミ拾いも始めました。
こちらは、高齢者支援とは性質がまったく異なります。
相手は特定の人ではなく、「街」そのものです。
散歩や買い物の帰りに、トングと袋を持って、ほんの短時間行うだけ。誰かと直接言葉を交わすこともなく、感謝されることはありません。
それでも、不思議とやってよかったという感覚は残ります。
自分が普段使っている散歩やジョギングのコース、日常的に行き来している場所が少し整う。それだけのことですが、そこにいる感覚が少し変わります。
人のため、街のため|巡り巡って何のためになるのか
人のためにする行為は、感謝や反応が返ってくることがあります。
街のためにする行為は、誰のためになったのか、よくわからないまま終わることも多い。
それでも、どちらも続いている。
では、それは結局、何のためになっているのでしょうか。
人のためにしたことは、巡り巡って自分のためになるのか。
街のためにしたことは、誰に返ってくるのか。
正直なところ、はっきりした答えはわかりません。
ただ一つ言えるのは、何もしないでいた頃とは、自分と人、自分と街との距離感が変わった、ということです。
関係が一段、近くなった。その感覚だけは、確かに残っています。
立派さよりも、続いていくこと
人や街のために、何かしたいと思ったら、立派である必要はないと考えています。
できる範囲でいい。一歩踏み出すだけでいい。
立派であることよりも、続くことのほうが、ずっと大切です。
小さな行動でも、関係性の中では、十分な意味を持ちます。
この文章が、誰かが一歩踏み出すきっかけになれば幸いです。




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